当時5歳の娘が書いた「循環」

私のこと

アトピー性皮膚炎、気管支炎、神経性胃炎、十二指腸潰瘍、不安神経症、パニック障害、カポジ水痘様発疹、化学物質過敏症、小脳梗塞……
出生時から始まり30年以上、私は病院にかかっていない時期が殆どなく、病名がアイデンティティのような人生を送ってきました
体と心と魂がバラバラの人生でした


「人はまず、自分自身が幸せで満たされていること」


これは、私がある意味で病気が治ったと感じた時に思ったことで、私にとって一つの旅を終えたゴールでもあり、新たなスタートでもありました

苦しみは全て自分自身が生み出したもので、未来も過去もなく、わたしは最初からここにあって、ただ守られていました


気づき続けること

まずは自分自身を癒すこと

そして自分の道を歩くこと



心ある先生方、
敬愛するお義母さん、
あちらの世界からずっと守ってくれている祖母、
そしてあの日「共に生きよう」と誓い、側で私を信じて目が覚めるのを待ち続けてくれた夫と、
道を照らし続けてくれた娘のひなたに心から感謝します


そして今、このわたしという"宇宙"にお付き合いしてくださっているご縁あるあなたへ

出会ってくださってありがとうございます



ここから先は、わたしの「物語」です
この「物語」が必要な人に届き、いつか私を含め、その必要もなくなることを願っています

ここまでで違和感を感じられた方は、回れ右をされるようお願いいたします

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私はこれまでたくさんの病気をしてきましたが、それが自分の生き方を正そうとするサインだったことに気づくまでに長い年月がかかりました。

 
  「症状を抑えること=治癒ではない」
 
  「人が病気になるには理由がある」
 
 

 2013年の夏、自宅のリフォームによるシックハウス症候群をきっかけに重度の化学物質過敏症(MCS)を発症し、最終的に吸える空気も、水も食べ物も、住まいも衣類も、家族と触れ合うことも、他人と接することも、人として生きていくのに必要なありとあらゆるものをすべて失うまで、私はそのことに気がつかない人生を送っていました。
 
 MCS (Multiple Chemical Sensitivity) は、日常生活で私たちが何気なく使用しているものに含まれる化学物質に接触することで多岐にわたる症状(頭痛・吐き気・めまい・動悸・呼吸困難・粘膜刺激症状・全身のだるさ・皮疹・異常発汗・不安感・思考力低下等)があらわれる疾患で、発症するとごくわずかな化学物質に対しても非常に敏感な状態となります。
 
 例えば空気や水の中に含まれる微量の汚染物質、食べ物・日用品に使われている農薬に添加物や化学薬品など…また医薬品でも症状が現れるために適切な医療を受けることができず、重度の場合は日常生活を送ることが完全に不可能となる病気です。
また、MCSを発症した人は高確率で電磁波過敏症も併発します。
 
 発症当初の私は、リフォームしたての自宅の空気を一秒たりとも吸うことができず、水道水も市販の食べ物も一切口にできず、電気を発するすべての家電品には触れることもできず、当然薬品臭の漂う病院には入ることすらできずで、分厚い防毒マスクを装着し、日本で一番大きいアレルギー外来のある病院で診察を受けた際は医者に「病院でできる治療は何もない」と告げられる状態でした。
 
 実際、当時の私の体はこの世に存在する全てのものに対して極度のアレルギー反応を起こしているような状態で、嗅覚で刺激を感じ取ると即時に何かしらの症状が出ました。
 
 様々な症状に苦しみましたが、私の場合、化学物質に暴露すると呼吸困難を起こし、その後は数日寝込んで動けなくなることがあり、その症状で意識が朦朧とし、夜中に救急搬送された病院でシックハウス症候群を疑われたことが始まりでした。
 当直の医師の「家の空気が問題ならその家には住めませんよ」の言葉の通り、病院から帰宅した私の足は二度と自宅に入ることはありませんでした。そんな、本当にある日突然の発症だったため、私を含め私の家族は、その日を境に訳も分からず目の前にあった日常を失いました。
 
 その日まで何の問題もなかった(水が)飲めない・(食べ物が)食べられない・(服が)着られない・(家で)暮らせない

 自分に何が起きているのか、誰一人説明のできないその状況は今思い出しても混乱以外のなにものでもなく、それでも発症当初はまずその信じ難い事実を周りに理解してもらうことと(これが何よりも大変!)、いつどこで何の化学物質に暴露するかわからないという恐怖、様々な症状と対峙することに必死の毎日で、家、家財、社会との繋がり…それまで普遍だと思っていた日常が、目の前から次々に消えていくことを嘆き悲しむ暇さえない、という静かな大混乱に加えて、発症当初は食べられるものもほとんどなかったために体力は急激に落ち、命の危険を感じて医療に助けを求めるも治療の術はなく、身に纏う化学物質を含む匂いで人に近付くことさえできないという状態でした。
 

 今では「香害」という言葉が聞かれるようになり、SNSの普及と共に化学物質の危険性を訴える声やCSの情報も増えましたが、10年以上前の当時は化学物質過敏症支援センターというNPO団体が一軒と、インターネット上に個人のブログが2つほどあった位で、この病気についての情報収集をすることは極めて困難でした。
 
  支援センターを見つけ、アドバイスを頂きながら、私たちはまず生活の基盤を整えるべく、空気汚染してしまった住むことのできない自宅と家財を手放し、ひとまず私の実家へ身を寄せ、センターに紹介していただいた転地療養先や避難先を行ったり来たりしながら先の見えない生活を送りました。
 
当時三歳だった娘の育児と私の日常生活の世話をするために、夫は一年間休職し、私は実家の空っぽの六畳間で約二年の間、電磁波と格闘しながら自分が口にすることのできる安全な水と食料をインターネットで探すことから始めて、日々症状と戦いながら体調を改善させるための情報を集め、有害物質をデトックスするための転地療養を繰り返すという日々でした。

 
そんな生活の中、自然素材を扱う工務店との出会いから、シックハウスを取り壊し、その土地に可能な限り化学物質や電磁波を避けた自然住宅を建てられる運びとなって、幸運にも私たち一家は再び元の土地で暮らせることになったのですが、それは体に障りのない資材を見つけ出し、ひとつひとつの建材に対する体の反応を試してみることからのスタート、という気の遠くなるような作業で、その手間数と工務店の方々におかけしたご迷惑を思い出すと、未だに申し訳なさで穴を掘って逃げ込みたくなります。

この頃の私の記憶は未だに一部分飛んでしまったままなのですが、それでも、当時保育園から帰宅した娘に付着していた柔軟剤などの香料の化学物質臭に必ず具合が悪くなってしまっていたため、娘には抱っこをするどころか、一時期は近付くことさえできなかった絶望感と、いつも離れたところから私の姿を見つめる娘の暗い瞳の色だけはよく覚えていて、ごく稀に、私の体調が良い時にシャボン玉石鹸で全身を何度も洗われた娘と二人、風通しのいい窓辺でアルミホイルで折り紙をすることだけが、当時唯一の母娘のふれあいでした。折り紙はケミカルな匂いが強く、当時は使うことができませんでした。
このことは、私に代わって必死に娘を育てながら、日々の生活と家族を繋いでくれた夫も、私も、忘れることができないのではないかと思います。
 

そんな経緯を経て、MCSの発症から三年目の秋、あちこちから借金をして私達三人は小さな新居で新しい生活をスタートさせました。

しかし、生活が落ち着きを取り戻していくにつれて、私は「なぜ自分はこの病気になったのだろう?同じ環境下にあっても病気になる人とならない人がいるのはなぜだろう?そもそも人はなぜ病気になるのだろう?」と疑問を抱くようになります。
 
そしてその頃、唯一口にすることができ、命を繋いでくれた農薬も肥料も使わない自然栽培農法の野菜と、土壌や腸内の「菌」についての学びがきっかけとなって、私は様々な添加物や巷で使われている化学物質や、CSを発症したことで服用できなくなった十代の頃から病院で処方され、服薬し続けていた「薬」について調べ、その薬のメカニズムと危険性を初めて知り、自分の身体に何が起き、それまでの生活がいかに自然からかけ離れた物であったのかと向き合うことになったのです。
 

それから私は、古今東西のありとあらゆる自然療法、食養生法や代替医療を実践しながら、免疫学から生化学、量子物理学、占星術からスピリチュアルの類に至るまで、ジャンルを問わず片っ端から取り憑かれたように、時間の許す限り勉強に明け暮れました。たくさんの本を読み、専門の先生にかかり、オンラインセミナーや勉強会に参加して、できることはなんでも実践しました。

しかし、勉強が進むにつれて、私の中に長いあいだ築かれていた価値観は見事に崩れ去り、その結果、私の心はこの世界全体に対する激しい怒りと不満で溢れ、社会や親を恨み、戻ってこない過ぎた時間を嘆いては今の自分には無価値感しか感じられない、という幸せと呼べるところからはほど遠い所に辿り着いていました。
病気さえ治れば、そこがゴールで幸せだと信じていた私は、自分自身の過去、在り方、その理想と現実のギャップに絶望し、目の前の現実と自分の身体に向き合うことができず、たくさんの苦しい感情を抱えたまま身動きが取れなくなってしまったのです。

こうしてどこかで目的と手段を間違えてしまった私は、体調も上がったり下がったりを繰り返し、強い離人感を伴う後悔の中を毎日ただぼんやり彷徨うだけで、心の中は常に大きな喪失感と孤独感が占め、強い他責と自責両方の念に苛まれながら、一大人として、母として、妻として、「役割」を果たすこと以外に、私が私としてここに存在している理由を何ひとつ見つけられずに過ごしました。

空っぽな自分と現実を受け入れることができず、バラバラな心とチグハグな体で目の前にある日常をこなすことに限界がくると、今この瞬間に全てを投げ出したい気持ちがよぎって、それを打ち消すことにとにかく必死だった時期もあり、夫にはそれはたくさんの迷惑をかけました。
外側の評価を基準に、"理由"という大切な責任を置きざりに、麻痺し続け盲信的に生きてきた私は、自分自身のことが全くわからなかったのです。

私は何をどんな風に感じ、何に喜び、何に傷つき、何を愛する人間なのか?
 
自分を知ること
自分自身と「対話」すること

まずはそこからでした。


重ね続けたぶ厚い武装を一枚ずつ剥がしていくようなその作業を始めると、それまで閉じ込められ、抑圧され、なかったことにされていたあらゆる感情が噴き出しました。

目の前の"現実"という番組をこなすことに並行して、暗闇で一人で赤ちゃんを育てているかのようだった、このひたすら不安で孤独な作業の中、心ある先生、家族や友人、植物やフラワーエッセンスに助けられながら、私は感情とは自分にとって非常に重い「責任」であり、何よりも尊重し、守るべきものだったことにこの時初めて気付いたのです。


この間、私は常識では考えられないレベルのひどい睡眠障害と聴覚障害、痙攣に悩まされ、あらゆる音に異常に敏感になったことで耳栓が手放せず、どんな方法を試そうとまとまった睡眠が取れずに非常に苦しんだのですが、不眠が続き、精神的にも体力的にも限界を迎えたある夜から、この怒涛の数年間の出来事を少しずつ書き出してみることを始め、「書く」という行為によってそれまで自分を縛り付け、苦しめていたたくさんの囚われに気づくようになって、それらを一つずつ手放していくことを繰り返していくうちに、重苦しい泥沼のようだった心が徐々に軽くなっていくのを感じられるようになりました。

そして、いつからか、心が痛みや苦しみに耐えることだけではなく、喜び、楽しみも感じられるようにもなり、誰かのために自身を削り続けて生きるのでなく、自分自身の欲求にも気づけるようになって、それを満たしながら、一歩ずつ歩けるようになったのです。

音楽が聴けるようになった時の喜びは、今も忘れられません。


過去を笑って話せた日のこと
娘の笑顔が見られるようになったこと
初めてやりたいと思った仕事を始めたこと
夫と大喧嘩したこと
心からの対話を知れたこと
祖母を思い出せたこと
意識を手放してぐっすり眠れた日の朝のこと
何もできない自分を許せた日のこと


私の宝物です。

私という人間が、只生かされていることの実感をひとつづつ積み重ねて私は今を生きています。

巨大な循環が只在り、巡り続けていること。
只目の前に在る日常。

その両方の自由と、不思議と、有り難みを感じています。
ずっと長い、長い、二重の夢を見ていたようで、たまにふと未来や過去の自分が今ここにいる自分を助けにきてくれたような、説明のできない感覚に襲われて、目の前にある景色に涙が溢れてしまう瞬間があります。

そして、ある日、この幸福な感覚を、わたしはずっと前から知っていたことを思い出しました。




追記
2025年、父の死をきっかけにSE™(神経統合トラウマセラピー)を受け始めたことで、私自身の解放と再構築は今も続いています。
凍りついていたものを受け入れ、かけらを統合し、言葉にできるようになるまでに時間が必要でしたが、再び自分のペースで歩いてます。

道子



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